<はじめて読む科学者の伝記>は、日本の科学者を紹介するシリーズで牧野富太郎、中谷宇吉郎、池田菊苗に続く最終巻が猿橋勝子です。『中谷宇吉郎』は、2021年11月号のこのコーナーで紹介されています。人物像だけでなく、研究内容や実験の様子も解説されているのが興味深いです。勝子は研究の功績ともに、猿橋賞の創設者として知られています。

はじめて読む科学者の伝記シリーズ
清水洋美/著
野見山響子/絵
汐文社
2021年3月発行、1600円+税
勝子は、1920年東京に生まれ、電気技師の父と、母、9歳上の兄の4人家族でした。子どもの頃は雨が降るのを見て、どうして空にあんなに水があるのか不思議がり、数学や物理が得意でマリー・キュリーにあこがれました。第一次世界大戦などの影響で、一家を支えるために働く女性が増え始めていました。勝子の担任も同様で、その働く姿を尊敬していました。義務教育は小学校の6年間だけ、高等女学校に進んでもその後の高等師範学校に進むのもごくわずかで、大学でなく私立の専門学校でした。勝子は医者になって社会に役立ちたいとの思いを両親に言い出せずに、高等女学校卒業後に就職します。しかし、医者への道をあきらめられず、東京女子医学専門学校を受験しますが面接の内容に落胆して、開校予定の帝国女子理学専門学校の物理に進みます。2年生の夏期講習で出向いた気象研究所で、生涯尊敬する師となる地球化学者の三宅泰雄と出会い、ポロニウムの分析を卒論のテーマに与えられます。ポロニウムは、マリーが発見し、故国であるポーランドにちなんで命名された元素です。憧れのマリーの研究した放射能に出会い、その後の放射能の研究に繋がります。マリーの育った環境や研究についてもわかります。
1943年中央気象台に就職し、オゾン層の観測データからその変化を理論化して論文にするなど、三宅が提案した地球化学のテーマを、勝子が真摯な実験で答え続けます。海洋への炭酸溶解度の研究では、少量の検体を短時間に実験する工夫をし、『微量拡散分析法』として発表しました。のちにまとめた『天然水中の物質代謝の研究』は、1957年東京大学理学部化学科で女性はじめての博士号論文となり、この中に「サルハシの表」が含まれています。海の中で、大気から溶け込んだ二酸化炭素の量がどのように変化していくのかがわかり、今、地球温暖化の原因のひとつとして注目される二酸化炭素の研究を先取りしたものだったのです。
太平洋戦争が終わっても、核実験が続く時代でした。1954年、アメリカはビキニ環礁で水爆実験を行い、近くで操業中だった日本のマグロはえ縄漁船・第五福竜丸が被ばくします。勝子は微量分析の達人として、船員に降り注いだ「死の灰」の成分分析を任されました。その結果、サンゴが水爆の熱で一瞬に溶けて分解したものとわかったのです。各地で雨に放射能が検出され、全国の気象官署ですべての雨を測定します。勝子も土から放射能物質を検出して人工の物質とわかり、ビキニ水爆によるものと結論しました。そして、「世界婦人集会」で、放射能汚染は地球全体に広がる、このまま核実験が続けば10年ほどで最大許容量に達すると訴えます。海水の放射性物質の分析では、勝子の数値にアメリカの学者が抗議をしました。そこで、勝子はアメリカに出向いて同じ海水の分析対決をし、勝子の正確さが認められました。
研究だけでなく、「日本婦人科学者の会」の設立に加わり、女性初の日本学術会議会員となって国内外との交流や核廃絶運動にと活動を広げ、多くの賞を得ました。研究所の中では、女性だからと差別されることはなかったものの、外では不愉快な思いをすることがあったそうです。退職記念として「女性科学者に明るい未来をの会」を立ち上げ、退職金を元に50歳未満の女性科学者を対象とする「猿橋賞」を創設しました。巻末に「さるはし新聞」、年表、多くの参考文献、猿橋以前の偉大なるリケジョの先輩たちが紹介されています。
「猿橋賞」は、2022年で第42回となり、女性科学者を応援し続けています。また、第4回受賞者の米沢富美子は、受賞者数名と勝子の自伝草稿のメモから『猿橋勝子という生き方』<岩波科学ライブラリー>を出版しています。
(科学読物研究会 増本裕江)
*科学教育研究協議会(科教協)が編集する月刊誌『理科教室』の2024年5月号から、許可を得て転載したものです。
*出版社によるこの本の紹介記事は、下記のURLからご覧いただけます。
https://www.choubunsha.com/book/9784811327372.php
































